添加物について調べたり、考えたりする中で、よく耳にする声があります。
「家族と考え方が合わなくて、しんどい」
相手は夫だったり、親だったり、義実家だったりしますが、話を聞いていくと、つまずいている場所は驚くほど似ています。
そして、そうした相談をくれる人ほど、すでにたくさん調べています。成分表示も見ているし、情報も追っている。決して極端な主張をしているわけではありません。それでも、家の中では浮いてしまう。このギャップに、長く悩んでいる人がとても多いです。
話を聞いていて感じるのは、考え方が自然に一致する家族のほうが、むしろ少ないのかもしれない、ということです。同じ家族だから価値観も近いはず、話せばわかってもらえるはず。そう思っている人ほど、現実とのズレに疲れてしまう。この前提をそのままにしている限り、どんな話し方を工夫しても、しんどさは減りません。
添加物の話が「情報の話」で終わらない理由
添加物の話は、一見するととても理屈っぽいテーマです。原材料、基準、製造工程。けれど家族の中でこの話題が出た瞬間、空気が変わるのは珍しくありません。それは、食の選択が「知識」ではなく「生活の肯定」と結びついているからです。
今まで選んできたもの、今まで問題なく回ってきた日常。その積み重ねがあるところに、「これは避けたほうがいいかもしれない」という話が入ると、相手の中では無意識に別の問いが立ちます。
「それって、今までのやり方は間違っていたということ?」という問いです。その瞬間、話は成分や安全性の話ではなくなり、自己防衛の話に切り替わります。
相談を受けていると、話している側は冷静に情報を共有しているつもりなのに、聞いている側は責められたように感じている、という場面を何度も見てきました。これは、伝え方が悪いからではありません。
話題そのものが、相手の「生活の正当性」に触れてしまうからです。
脳は「正しさ」よりも「今の安全」を守ろうとする
ここで、少し視点を変えて考えてみます。
人は新しい情報に触れたとき、論理的に考える前に、まず扁桃体と呼ばれる部分が反応します。ここは危険や不安を察知する場所で、「安全かどうか」を最優先で判断します。特に食や健康は、生存と直結する分野なので、この反応が強く出やすい。
「それは体によくないかもしれない」
「避けたほうがいいかもしれない」
この言葉が入った瞬間、脳は正誤を考える前に、「今の生活は大丈夫なのか」「これまでやってきたことは否定されていないか」を確認しにいきます。その結果として出てくる言葉が、「今までは問題なかった」「気にしすぎじゃない?」という言葉です。
これは拒否や理解力の問題というより、そうした反応が起こりやすい仕組みとして見ることもできます。脳がこれまでの生活を守ろうとしている反応です。ここを知らずに説明を重ねると、相手の脳はますます警戒モードに入り、話は届きにくくなります。
まず伝えているのは、「それは理解力の差ではない」ということです。
「説明すれば伝わる」と思うほど、関係が削れていく
多くの方が最初に頑張りすぎてしまうのが、「どう説明すれば伝わるか」を考え続けることです。根拠を集めて、専門家の意見を探して、できるだけ角の立たない言い方を考える。でも結果として、どんどん疲れていく。
理由として考えられるのは、受け取る準備が整っていない状態で、説明を重ねてしまうことです。
相手の脳が防御反応を起こしているとき、どんなに正確な情報でも、そのまま入っていきません。これは話し方の問題ではなく、受け取る側の問題です。ここで必要なのは、説明力ではなく、「どこまで関与するか」を決め直すことです。
折り合いとは「同じになること」ではない
「折り合いをつける」と聞くと、多くの人が「どこかで譲らなければいけない」「自分が我慢しなければいけない」と考えます。でも、折り合いとは価値観を揃えることではありません。違う考え方のまま生活を続けるために、役割や距離を決めることです。
たとえば、
- 日常の買い物は誰が決めるのか
- どこまでを自分の判断にするのか
- どこから先は踏み込まないのか
ここを曖昧にしたまま話し合いを続けると、食の話以上に、家族関係そのものが疲弊していきます。
家の中に、判断軸が複数ある前提で考える
食に限らず、健康、お金、時間の使い方。どれも家族の中で温度差があって当たり前です。それなのに、添加物の話になると、なぜか「揃えなければいけないもの」になってしまう。
家族の中に、「気にする人」と「そこまで気にしない人」がいる。この状態は異常ではなく、むしろ、かなり一般的です。判断軸が一つでなければ生活が回らない、ということはありません。
自分が選ぶ分は、自分の基準で選ぶ。相手の選択に、必要以上に口を出さない。すべてを統一しなくても、生活は普通に続きます。「全部を揃える」よりも、「自分の選択を自分で引き受ける」ほうが、現実的で続きやすい形です。
「何も言わない」は、黙ることではない
最後によく聞かれるのが、「何も言わないのは逃げではありませんか?」という問いです。ここで少し言葉を整理しておきたいと思いますが、この記事で言っている「言わない」は、黙って我慢することではありません。
本当は違和感があるのに、波風を立てないために飲み込む。あとから一人でモヤモヤを抱える。それは、わたしの中では「言わない」とは別のものです。
相談を受けていて感じるのは、多くの人がすでに一度は、ちゃんと伝えようとしているということです。成分の話もした。理由も説明した。それでも空気が悪くなったり、話が噛み合わなかったりして、疲れてしまった。
その経験を踏まえた上で、「今は説明しない」と決めること。それは、黙ることでも、諦めることでもありません。相手の反応や立場を見たうえで、「ここは話題にしない」「ここは踏み込まない」と線を引く。これは、自分の立ち位置を決める行為です。
実際、「言わない」を選んでいる人がやっているのは、何もしないことではありません。
- 自分が食べるものは、自分で選ぶ
- 自分の判断には、自分で責任を持つ
- 家族全体を変えようとはしない
外に向かって説明はしないけれど、内側では、ちゃんと考えている。その状態を保つための選択が、「言わない」です。
おわりに
家族と添加物の考え方が合わないとき、問題になるのは、知識の量でも、意識の高さでもありません。生活の中で、誰がどこまで決めて、どこから先は踏み込まないのか。その整理ができていないことが、しんどさの正体です。
同じ考えになる必要はありません。説得し続ける必要もありません。自分の判断を、自分で引き受ける。それ以上を背負わないと決める。それだけで食の話が、家族のやり取りを重くし続けることは少なくなります。
向き合い方を変える、というより、関与の範囲を決める。
この記事で伝えたかったのは、それだけです。
店主より


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